1966年、佐伯市で精肉店を営む家庭に生まれた。父はかつて佐伯鶴城高校で野球をし、母もかつて陸上競技をしていた元アスリートの両親と、姉・弟が一人ずついる五人家族だった。
駒澤大学に進学すると太田誠監督に見込まれ、鉄拳を振るわれる事も珍しくない厳しい指導の一方で1年時から東都大学野球リーグ戦に起用されている。
2年生で迎えた1986年の春季リーグ戦からは遊撃手のレギュラーとなり、同年の秋季リーグで初め てベストナインに選出された。
3年時の春季リーグ戦ではシーズン新記録となる18盗塁を記録し、2季連続でベストナインに選ばれている。また6月の日米大学野球と8月のアジア選手権で日本代表入りを果たし、同年頃からプロ入りを意識するようになったという。秋季リーグ戦では二塁手としてベストナインに選ばれた。
4年生になると駒大の主将に就き、春のリーグ戦では22年振りにリーグの通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなど、完全優勝の原動力となり満票で最高殊勲選手とベストナインに選出されている。同年も日米大学野球で代表入りし、さらに9月のソウルオリンピック野球日本代表にも3人だけの大学生選手として選ばれた。同五輪では代打として起用され、決勝を含む3試合で9打数2安打の成績を残している。決勝の対アメリカ戦では途中出場で1安打を放つも、一打逆転の場面でジム・アボットに抑えこまれた。
東都での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、打率.317、10本塁打、48打点、ベストナイン4回、52盗塁。なお全日本大学野球選手権大会には2度出場し、大学No.1野手の評価を得て石毛2世とも呼ばれ、1988年のドラフト会議では重複指名が予想されていたが結果として広島に単独で1位指名された。なおカープは川崎憲次郎も1位候補として検討していたものの、スカウトの強い推薦もあって野村を指名している。
契約金6,000万円、年俸600万円で入団契約を結んだ。
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